『川西賢志郎』漫才師を辞め新たな人生への思いを1冊に「すべて吐き出して次に進みたい」

『川西賢志郎』漫才師を辞め新たな人生への思いを1冊に「すべて吐き出して次に進みたい」

川西賢志郎、漫才師を辞め新たな人生への思いを1冊に「すべて吐き出して次に進みたい」
…「和牛」として漫才に向き合ってきた芸人・川西賢志郎。漫才コンビを解散し、漫才師として歩んできた“これまで”と、芸人としての“これから”を綴るエッセイ…
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川西賢志郎のサムネイル
川西 賢志郎(かわにし けんしろう、1984年(昭和59年)1月29日 – )は、日本のお笑いタレントである。大阪府東大阪市出身。吉本興業所属。2024年3月に解散したお笑いコンビ『和牛』のツッコミを担当していた(相方は水田信二、立ち位置は右)。 身長170cm、体重63kg。血液型はO型。東大阪市…
8キロバイト (903 語) – 2025年1月23日 (木) 08:33

(出典 contents.oricon.co.jp)
川西賢志郎さんが漫才師を辞め、新たな道に挑む姿勢には心を打たれます。彼の経験や思いを一冊にまとめたということは、彼自身の成長を見つめ直す大きな一歩だと思います。今回の挑戦が彼にとって新たな扉を開くきっかけになることを祈っています。

1 湛然 ★ :2025/02/07(金) 06:49:25.72 ID:40CexHo09

川西賢志郎、漫才師を辞め新たな人生への思いを1冊に「すべて吐き出して次に進みたい」
2/6(木) 20:05 エンタメNEXT
https://news.yahoo.co.jp/articles/7479f459113d81bcad6e7160182817d9c233b82e
川西賢志郎 撮影/松山勇樹 ヘアメイク/山内マサヒロ スタイリング/神山トモヒロ

(出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)

「和牛」として漫才に向き合ってきた芸人・川西賢志郎。漫才コンビを解散し、漫才師として歩んできた“これまで”と、芸人としての“これから”を綴るエッセイ『はじまりと おわりと はじまりと ―まだ見ぬままになった弟子へ―』を上梓する。刊行に伴いインタビューを実施し、著書への思い、そしてこれからの活動について話を聞いた。(前後編の前編)

──漫才とずっと向き合ってきたキャリアだと思うのですが、辞めてからの心境で変化はありませんでしたか?

それはないですね。そこに至るまでに、しっかり自分と対話してきましたから。一個一個の選択を、「お前これでいいんか」と、自問自答しながら歩んできたので。こんな言い方をしたら、漫才師として応援してくれてた人のなかには寂しく思われるような方もいるかもしれませんが、後悔とか未練とかは一切ないんですよね。

──となると、基本的には漫才師をもう一度やることは考えていないですか?

そうですね。僕自身、解散を決めるまでのある程度の期間、いつ最後の舞台になっても悔いは残さない覚悟でやっていたし、週刊誌の記事によって本当に急に最後の舞台になりましたが、悔いはないです。

──漫才師ではなくなったいま、漫才をやるために舞台に立つこともなくなったと思いますが、何かご自身に変化はありますか?

昼食がヘルシーになりました(笑)。劇場へ行くとお昼はカレーとかラーメンとか中華ばっかりでしたけど、それがなくなりましたね。久しぶりに会ったスタイリストさんに「顔がスッキリしましたね」と。添加物とか余計な塩分が抜けたせいかもしれませんが、今聞かれて一番に思いついた変化はそれです。

──現在は俳優業にも挑戦されていると思います。今まで挑戦してきたこととの違いや難しさはありますか?

もちろんありますね。環境や共演者や求められることは違います。それでも、あくまでも自分がその場所に行く心持ちは、それまでの延長線上でしかないなと思っています。僕は漫才をやっているときから細かい所作で感情表現するということに人一倍こだわってきたと思っていますし、だから、コントにしろドラマにしろ感情の表現を考える作業は同じで、ひとつづきなんです。それが作品にどこまで貢献できているかは、僕にはわかりませんが。

──今後の川西さんの活躍の場所はどこになるのでしょうか?

僕は俳優業を切り分けていないし、今までの延長線上でやっています。肩書とか誰になろうとかそういうことじゃないんです。3月にライブをやります。解散することが決まってから、本を出すことと、一人でライブをやることは決めていました。なので、ようやく自分の中でいったん完結するような思いであり、それからのことはその後考えようと思っています。

コンビを解散し、漫才師を辞めるとなったとき

──今回、本を書こうと思ったきっかけを教えて下さい。

コンビを解散し、漫才師を辞めるとなったときに、自分が何を経験してどんなことを考えたかということをすべて吐き出して次に進みたいなと思いました。何がいいかと考えたとき、本が形にも残るし、いいかなと思いました。

──本を残そうと決め、すぐにKADOKAWAさんから出版という話になっていったんでしょうか?

そもそもお話をいただいて書いた本じゃなくて、僕が本にしようと思って勝手に書き始めて、どこで出版するのかもわからないまま7割ぐらい書いていました。そこで、僕はKADOKAWAさんの『ダ・ヴィンチ』という雑誌でずっと連載をさせていただいていたので、そのときの編集長に見てくださいと見せたんですよ。その方はもうKADOKAWAを辞めていたので、後任の方に引き継いでくださって、出版に至りました。

(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)

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